園主である私鳥居は、教育における3大問題を次のように考えています。共通点は「想像力の欠如」です。このコーナーでは、9歳の壁と幼児教育の関係について触れます。幼児期からの「遊び」こそが、9歳の壁対策になりうると思うからです。
「9歳の壁(10歳の壁)」とは何か。2009年6月にNHK総合「クローズアップ現代:10歳の壁を乗り越えろ!」でも取り上げられたのでご存知の方もいるかと思います。最近9歳(10歳)頃に勉強についていけないという子どもが急増しています。これは一体どうしたことなのでしょうか?
ちょうどこの時期が小学3、4年。勉強内容としては分数や余りのある割り算、文章問題などが出てきます。目で見たらすぐわかる内容から抽象的な内容に変わってきます。今までのように丸暗記したり、お手をなぞったり、反射的に反応できるようなカリキュラムから質的に変化してくるのです。すなわち思考力が求められます。目の前にないものを頭の中でイメージできなければなりません。学校で学び始めて最初にぶつかる難関です。

ところでこの「9歳の壁」という言葉の命名は、東京教育大学付属聾学校長の萩原浅五郎氏といわれます。障害児教育の分野から研究されてきたのです。知的障害とは「IQ75以下」といわれ、論理的思考力が通常の9、10歳レベルにとどまっているものともいわれます。萩原氏は、知的障害がないにもかかわらず、聴覚にハンデがあると小学3、4年の学習の理解に困難をきたす、というのです。
耳から入る情報量のハンデが、抽象的思考力の獲得のつまずきになるのです。「ことばの力」が弱い、というわけです(参考文献「少年期の壁を越える」加藤直樹著、新日本出版社)。ことばの力をしっかりと身につけることは物事を抽象的に考えることになり、それは学力に直結すると考えられます。※現在では聴覚障害児への教育実践の発展によりこの問題は改善されつつあるということです(前掲書より)。
教育上の1つの大きな問題が、「9歳の壁」ではないでしょうか。そのあたりを、ボウリングの「スパット」に例えてみましょう。


ボウリングの目的は、レーンのはるか先にあるピンを倒すことです。そのために目の前にある「スパット」を、とりあえずの指標としてボールを投げます。

この「スパット=とりあえずの指標」が「9歳の壁」です。ここを上手に越えること。そのための幼児教育です。逆にいえば、スパットまでを上手に経過すれば、ゴール(成人)は見えてきます。
私たち大人には、「心の中に(あるいは自分の外に)もう一人の誰かがいる」という感覚があります(心理学でいう「メタ認知」)。考えるプロセスとは、「もう一人の誰か」との対話です。本を読むときでも、文章を書くときでも、私たちは無言の対話をしています。

ところで幼児の特性の1つに「自己中心性」があります。自己の分離は難しいものです。しかし「イメージできる力」が育ってくると(つまり抽象思考が進むと)、モノをシンボルに置き換えることできるようになります。その結果、「もう一人の誰か(もう一人の自分)」の存在が理解できるようになります。自分という存在を、もうひとつ生み出す。これぞまさに究極の抽象化です。すると次の3つのことが理解できるようになります。
①時間:意志・希望について
みなさんに質問です。小さな子どもは「場所」と「時間」のうち、どちらを先に認識すると思いますか?答えはもちろん「場所」です。目に見える「場所」の感覚は、イメージしやすいものです。しかし「時間」の感覚は目には見えません。
「来年になったらできるから…」といっても、「来年になって成長した自分」という時間軸がイメージできないと、幼児には伝わりません。(ここに具体的なモデルとしての「異年齢保育」の意義があります)。
しかし抽象思考が育ってくると、「将来の自分」がイメージできるようになります。すると「(あそこまで)もっとがんばってみよう!」「(あそこまで)我慢して続けてみよう!」という意志や希望が湧いてきます。継続的な努力が可能になるのです。一般に小学3,4年で塾通いが始まるのはこのためでしょう。
②論理:知力について
思考とは、心の中での対話です。論理性とは、思考という目に見えない道筋を「ああでもない、こうでもない」とたどっていくことです。心の中の誰かを相手に、(いや、待てよ!)と試行錯誤しながら問題を解いていくわけです。このとき、心の中に誰もいなくて「?」「…」といったつぶやきばかりだと、当然、勉強は進みません。9、10歳あたりから落ちこぼれが出てくるといわれるのはそのためです。
③心:社会性・共感について
「もう一人の自分」の存在は、自分以外の視点を外に作り出します。客観性です。すると友達の視線が気になり出します。また、他人の心を推し量れるようにもなります。これはなかなか切ない問題です。
いい意味でも悪い意味でも、人生の諸問題に気づき始めるのです。友だちとの比較が始まります。劣等感が生まれます。もちろん優越感も生まれます。批判精神も生まれてきます。単純なほめ言葉が通用しなくなります。また性的な羞恥心も出てきます。
この羞恥心のおかげで、「次はがんばるぞ!」という「意欲」が高まります。それとともに、他人に恥ずかしい思いをさせないようにという「思いやり」も出てきます。社会性です。
俗に「人の振り見て我が振り直せ」といいますが、他人のことはよくわかるものです。目で見えますから。しかし私たちは、自分の目で自分の顔さえ見ることができません。だから自分のことはなかなかわからないのです。しかし「鏡」があれば別です。そしてこの自分を映し出す「鏡」こそが友だちなのです。仲間集団なのです。

思春期の発達課題である「アイデンティティ」は、こうした仲のよい友だちを「鏡」にすることで作られてくると、児童精神科医の佐々木正美先生は言っています。
ところで「9歳の壁」でつまづくことは、学力面のみならず、精神面においても悩ましい問題となります。「相手の心」という抽象概念が理解できないと仲間作りが難しくなります。また「いじめ問題」への関連も無視できません。
以下は非行少年の専門家である、家庭裁判所調査官のコメントです。
この時期に友だちと遊んだ体験の乏しさ。夏見台幼稚園・保育園が「発達段階に合わせた遊び・おもちゃ」の選択にこだわる大きな理由の1つがここにあります。
ところで先に触れましたNHK「クローズアップ現代」の中で、全国からの見学が引きも切らないというある小学校の取り組みが紹介されていました。
「227÷3」という「余りのある割り算」の理解に苦しむ子どもたちの姿が映し出されました。まず、計算の得意な子どもが、黒板にすらすらと計算式を書きました。答えは「75あまり2」で正解です。

しかしなぜこれで正解なのか、と先生が質問を投げかけました。誰も答えることができません。それを解決するために先生が用意したのは227個のキャラメル。10個入りのキャラメルの箱が22箱、これで220個。そしてバラのキャラメル7個です。

まずは箱に入った10個ずつを3つのお皿に分けて、バラの7個もそれぞれお皿に分けます。余りは2個でした。

抽象的に考えるには、具体的な体験やモノをベースに考えることが鍵になる。こうしたことが明確になった授業でした。どうでしょうか?これは遊びそのものではないでしょうか!私たちは手を使って考えることの大切さを日常忘れています。もっと子どもたちに手を使わせて、その思考力の土台を築いてあげたいものです。

いきなりですが「愛」とは何か?私たちは「愛」という抽象概念を理解することができます。説明することもできます。「愛」を説明する具体的な言葉を知っていますし、人を愛したり愛されたりした経験があります。その逆の場合も(それも1つの経験となるわけですが)。
そんな具体的な体験が、「愛」という抽象的な概念を理解する土台になります。反対にいえば、愛の体験がない、愛を説明する具体的な言葉を持っていないと、「愛とは何か?」という問いには答えられないでしょう。
つまり抽象的な概念を理解するには3つのステップが必要になります。それが以下に示した「思考力獲得の道すじ」です。

まずは①身体感覚。皮膚感覚というか、まずは身体で体験する。赤ちゃんはなんでも触ろうとします。あるいは口に運ぶ。実はそうしないとモノが認識できないといいます。これが言葉を獲得する前の段階です。
続いてはモノを介して具体的に考えること。生後1年たって言葉を獲得すると、いちいち触らなくてもモノを認識できます。「あ」でも「ば」でも、名前をつければいいのです。
そうして年中〜年長くらいでしょうか。子どもが散歩しているとスズメが見えます。カラスも飛んでいます。ひとつひとつは認識できます。しかし当然ながら「間の関係」は目に見えません。「鳥」「鳥類」という抽象概念です。そのためには「似たものを見つける力」が必要です。
羽がある、くちばしがある、足が二本、飛ぶ…。こうして次の段階、抽象的思考が成立するのです。※ちなみに「似たものを見つける力」はごっこ遊び(象徴遊び)の中で育まれます。
こうした積み上げが「9歳の壁」クリアのためのステップになります。そしてその土台を築く役割を担うのは、私たち幼児教育に携わる人間です。
子どもにはなぜ遊びが必要なのか?なぜ豊富なおもちゃが必要なのか?なぜさまざまな体験が必要なのか?以上でご納得いただけたでしょうか?それは子どもを賢くするためです。物事を認識する力、文字や数など抽象的なシンボルを扱う思考力を養うためです。しかも遊びは主体的な活動です。自ら進んで取り組むことで「意欲」も育まれます。すばらしいのです。遊びは!
この順序を飛び越してあせって詰め込むとどうなるか?中にはすばらしく抽象思考が得意なお子さんがいるかもしれませんが、下の図のように土台のない山はもろく崩れてしまいます。

今、9歳の壁の問題がクローズアップされてきたのは、まさにその前段階である身体感覚やおもちゃなどの「モノ」を介した活動の貧しさにこそ、その原因があると私は訴えたいのです。
子どもたちが安心して遊べる場所が減少し、身体を動かす機会も減っています。興味関心を上手に刺激するテレビ番組やネットも、子どもを釘付けにします。
おまけに、日本のおもちゃは電動のものが多いですね。子どもが主体的に働きかけるおもちゃではなく、極めて優秀なエンジニアが子どもの心理を研究し尽くして開発したおもちゃ。視覚や聴覚へ強く訴求するようにプログラミングされたおもちゃ。
しかしそうしたものよりも、素朴なパズルや積み木のようなおもちゃを与えたいと私たちは思います。子どもたちの自由な発想や想像力が広がるおもちゃを。こうした「拡散的思考」でのびのびと多様な答え・アイデアを追い求めることができるのは幼児期の限られた時期だけです。学校教育ではどちらかというと集中的思考が求められます。重要なことは1つの答えを見つけだすことですから。(※最近は「アクティブ・ラーニング」とかで変わりつつありますが)

しかし社会に出ると違います。答えは1つじゃない。多様な人生があり、多様なアイデアで勝負することが可能です。だからこそ、私たちは学校に入る前の幼児期に豊富な遊びの体験を子どもたちに思いっきり味わってほしいと思います。
夏見台幼稚園・保育園で行われる室内遊びは子どもの発達段階に合わせ系統だった組み立てになっています。頭だけ賢くなってもそこに意欲が伴っていなければ、せっかくの能力が空回りです。「意欲と賢さ」。それが夏見台幼稚園の遊びです。
ヨーロッパの幼稚園関係者が日本のある幼稚園を訪れたときに次のような感想を述べたといいます。
確かにどちらかというと室内のおもちゃよりも園庭遊具が充実しているというスタイルが日本流のようです。私たちは園庭遊具も室内のおもちゃも両方大切だと思います。
大きな筋肉(園庭遊具)と小さな筋肉(手先の器用さ)をバランスよく育みたい。私たちはそう考えます。手先の器用さの開発は「頭の賢さ」と密接に関連しています。手は第2の脳ともいわれますね。
室内で行う遊びには様々ありますが、私たちはわかりやすく図のようにしました。

そしてこの遊びの積み上げは前のページで紹介した「思考力獲得の道筋」のピラミッドにちょうど重なるのです。

①機能遊び
図では1歳くらいからとなっていますが、実際は赤ちゃんから様々な遊びがあります。手先の感覚や器用さの獲得が行われます。

②象徴遊び
2歳くらいからはじまります。代表的なものに「ごっこ遊び」があります。しかしすぐに「ごっこ遊び」はできません。その前段階として、「つもり・みたて遊び」を十分経験して、3歳くらいから「ごっこ遊び」が始まります。模倣や社会的役割の理解と獲得が行われます。

③構造遊び
3歳くらいからはじまる遊びで、代表的なものが「積み木遊び」。空間認知、創造性、仲間との協調性が育まれます。

④ルール遊び
4歳くらいからできるようになります。集団で行うカード遊びなどのルールのある遊び。規律を守れないと集団で遊べません。

「○○歳から」というのはあくまでも目安です。例えば3歳で幼稚園に入園したからといって、すぐに積み木遊びができるわけではありません。手先の器用さが十分開発されていないと積み木が積めないわけです。その場合は少し戻って「機能遊び」をたっぷり行うことが大事です。発達段階に合わせて遊びも、おもちゃも変わるのです。
逆にいえば発達段階に合わせて、変わっていかなければならないのですね。こうして「遊び」は「教育」になるのです。では4つの遊びをもう少し掘り下げてみましょう。まずは「①機能遊び」。
※1歳から、とありますが私たちの保育園(夏見台保育園)では、赤ちゃんから様々な機能遊びをやります。
赤ちゃんが誕生して1年くらい経つと2つの劇的なことが起こります。それは「話すこと」と「歩くこと」。二足歩行は両手を自由にし、さらに親指が掌から分離することで道具を扱えるようになりました。つまり「歩くこと」で手先が器用になったわけです。
「ことば」と「手先の器用さ」この2つが我々人類と動物とを分ける大きな違いになります。知能とはまさに「ことば」と「手先」にあります。

穴にひもを通すことやビンのふたを回して閉めること。大人からみればなんと言うこともないことですが、子どもはこれが楽しいのです。くり返しくり返し行います。やがて習熟すると飽きてきますね。そのときは、より穴の小さな容器を与えたり、より細いひもを与えます。難易度を上げます。子どもたちは夢中でまたくり返します。
モノを「移す」という行為を子どもは好んで行います。最初は散らかしてばかりなので、大人から見ると「ああ、また!」と困ってしまいます。しかし、これは子どもなりの学習です。「数」の概念を学ぶ前に「量」の概念をつかむ必要があります。
それが発達です。おおざっぱな「大きい・小さい」「多い・少ない」という感覚をこうした遊びをくり返すことで獲得していきます。そのときに必要なおもちゃの環境を適時、適宜作るわけです。
続いて「②象徴遊び(再現遊び)」。いわゆる「ごっこ遊び」ですが、幼児教育的には模倣を通じた社会的役割の獲得ということになります。まずは身近なお母さんやお父さんを真似る。バスの運転手さんや先生を真似る。

発達段階に合わせた環境を整えておけば、遊びはどんどん発展していきます。写真にあるようなハンドルのおもちゃがあれば、家族揃って外食へ行こう、という遊びとなります。レストランにはコックさんがいて腕を振るいます。前に触れた「似たものを見つける力」を育む、大切な遊びです。
ところで、子どもたちを見守る私たちの視点は次の2つが大きなポイントとなります。
保育者は子どもの遊びにできるだけ介入しません。もちろん、きっかけ遊びとして最初は先生がお手本を見せます。そうして子どもたちを巻き込み遊びを伝え、少しずつ遊びの輪から離れていきます。遠くから見守ります。
子どもが遊びに集中できていないとすぐに目に付きます。どうして集中できないのか?発達段階に合っていないのかもしれない。あるいは発達が早いため、今の遊びでは退屈なのかもしれない。そうしておもちゃや遊びを適宜切り替えていきます。ただ子どもを自由に遊ばせているわけではないのです。逆に、適当な環境を用意すれば、子どもの遊びはどんどん発展していきます。次の「構造遊び」がいい例です。
「③構造遊び」。積み木遊び以外に、「汽車遊び」なども構造遊びの1つになります。自由にレールを敷いて広く大きく遊びが発展していきます。ですが例えば一人っ子の場合ですと、集団に入った当初は小さな輪のレールを作って遊んでいます。やがてみんなで協力して、大きなレールを敷くようになります。子どもの発達はおもちゃの形に表現されます。

積み木をあわせて街づくり。十分な分量の積み木さえあれば、子どもの作品はどんどん発展していきます。作品の大きさに合わせて、どうしても複数での共同作業になります。自分勝手な行動をしていると、友だちが遊んでくれません。こうした人間関係が学べるのもまた、遊びの教育効果といえましょう。
最後は「④ルール遊び」。集団における規律の獲得です。カードゲームが代表的なものですが、まずルールを理解できなければ遊べません。その上でルールを守ること。最終的には、子どもたち同士でルール作ることができるといいですね。こうした遊びをのびのびとできるように導いていきたいと考えています。

子どもの発達に関する相談の中で最も多いのが「ことば」に関するものといわれます。そしてこの「ことば」の発達と遊び・おもちゃとは密接な関係があるのです。心理学者のルリアによると、「ことば」には3つの機能があります。
改めてこうして並べてみると「なるほど!」と思います。「ことば」とはコミュニケーションの道具としてだけではなく、「考えたり」「行動したり・制御したり」といった働きもします。最近は単なる返事としてしか「ことば」を使わない若者も増えていますが…
「ことばで思考しない」「ことばで行動が制御できない」それは下のグラフのように、小学生の暴力事件の激増にも現れています(文科省H19発表)。
中学生は20%増、高校生は5%増なので、小学生の37%はかなり突出しています。「目を離すとすぐにけんかになる」ため、おちおち職員室で休憩も取れないと嘆く先生たちの姿が報道されました。これは一体どうしたことなのでしょうか?各新聞には、小学校の先生のコメントが多数紹介されていました。
その原因を次のようにコメントする先生がいました。「言葉でコミュニケーションをとる力が不足していて、すぐに手が出てしまうようだ…」
今後の対策としては、気持ちの言語化やコミュニケーション能力の向上、感情を言葉で表現する工夫をしましょう、といった対策が打ち出されるものと推測できます。確かにそうした観点も見逃せないでしょう。
しかし果たして、言葉の使い方が下手あるいは不十分だから口より先に手が出てしまうのでしょうか?もしかしたら子どもたちは発達段階における適当な時期に、適当な「遊び」を十分してこなかったために今のような状況になったのかもしれません。
スイスのピアジェは「TIME誌が選ぶ20世紀の100人」にも選ばれた大変著名な心理学者です。ピアジェは子どもの行動を綿密に観察し続け、さまざまな提言を行いました。ピアジェは、子どもの知的発達段階を4つに分けました。そのうち0歳から2歳の最初の時期のことを、『感覚運動操作期』と命名しました。大変有名な言葉です。この年齢の子どもは言語を使って思考ができません。何でもいじってみて、触ってみてという行為を繰り返しながら思考している、というのです。
2歳くらいまでは言語を使って思考できない。手や身体を使って思考しているというわけです。何か突起物があれば押してみる。穴があれば指を入れてみる。考えてから操作するのではなく、操作自体が思考活動そのものなのです。
0歳〜2歳の時期に「機能遊び」として手指を使った活動・遊びをたっぷりさせてあげることが、後の言葉の発達、さらには思考の発達に大いに影響するというわけです。しかしここで1つの疑問が起こります。
もしピアジェの言う「感覚運動操作期」に手先を使うことをやっていないとしたら?その前に「脳科学」の観点から考えてみましょう。
よく「手はもうひとつの脳である」とか「手は見える脳である」ということがいわれます。手と脳の関係とはいったい何なのか考えてみましょう。
次の図は脳の断面図です。脳の中央に大きな溝があります。それを「中心溝」といいます。その中心溝に沿ってひらがなの「の」を書いてみます。その前と後の部分で脳の機能はざっくりと2つに分かれるのです。
「感じる脳」(脳の後の部分)では、目から入ってきた情報、耳から得た情報、手などの皮膚感覚を記憶します。その記憶した情報を「動かす脳」(脳の前の部分)では、1つの意志を持って引っ張り出し、整理し、行動への指令を出します。この両者のスムースな連携こそ、脳が「賢く」機能している状態といえましょう。これが、脳を全的に使うことです。
脳の前の方「動かす脳」の中で、実際に私たちの身体をコントロールしているのは「運動野(うんどうや)」です。
この運動野発見のきっかけは今から約70年前。カナダの医師ペンフィールドが、てんかん患者の開頭手術を行った際にわかりました。脳のある部位に電気を流すと、身体の特定箇所が反応したのです。ペンフィールドは丹念に調べていきました。できあがった「脳地図」。特に手と口や舌の部分が非常に大きかったのです。その比率をもとに作った人形(ホムンクルスという)が下の図です。ちょっとグロテスクですが…

胴体に比べて、手(指)と口・舌が異様に大きくなっています。手や舌に関係した神経細胞の数が非常に多いことがわかります。脳の発達は、手を動かす機能と話す機能と密接に関係しているのです。手や口・舌を使えば使うほど、脳も働くわけです。これが他の動物と人間の大きな違いです。

整理しましょう。赤ちゃんが誕生して1年くらい経つと2つの劇的なことが起こります。それは「話すこと」と「歩くこと」。二足歩行は両手を自由にし、さらに親指が掌から分離することで道具を扱えるようになりました。つまり「歩くこと」で手先が器用になったわけです。手の自由な動きは「身振り・手振り」を豊かにし、コミュニケーションが行われるようになりました。そして人類は言語を持つようになったといわれています。

「手先の器用さ」と「ことば」。そして「思考」。この3つが我々人類と動物とを分ける大きな違いになります。知能とはまさに「ことば」と「手先」にあるのです。
「ことば」に言及した流れで、ここではごく簡単に「絵本」に触れます。「ことば」と「手先」に人間の知能がある、と書きましたが「手先」はおもちゃで、「ことば」は絵本で、となるでしょう。
日本の幼稚園の父とも敬称される倉橋惣三は、「お伽噺・音楽・絵は抽象的性質を持ち、玩具は具体的性質を持つ」と書きました。また奈良女子師範学校教授だった森川正雄は、「子どもが玩具を弄ぶのは身体の遊戯、絵本の解釈は精神の遊戯」と書きました(参考文献「よいおもちゃとはどんなもの」永田桂子著)。幼児教育にとっておもちゃと絵本はまさに車の両輪ですね。
お話を聞くことや絵本を読み聞かせてもらうことは将来の読書好きにつながります。というと、勉強にプラスになるからどんどん読ませよう…となるわけですが実は「物語」の力はそんなレベルを超えています。その子の「生きる力」になりうるのです。
筑波大学名誉教授の小澤俊夫は西洋の昔話を研究し、その共通点を日本に紹介しました。主人公にはある条件がある。それは…「孤立性」だといいます(「昔ばなしとは何か」福武文庫)。主人公は孤児であるとか、貧乏であるとか、みんなに馬鹿にされたりしています。しかしその「孤立性」のゆえに、何とでも結びつく可能性があります。面白い観点です。
そういえばハリウッドのシナリオライターが同じようなことを書いています。成功する映画には1つの共通点がある、それはシナリオが「神話の法則」に貫かれていると。極めて簡単に書きますと、主人公の男の子が母親(母性的なもの)から離れて父親(父性的なもの)を探しにいく
このシンプルなあらすじは世界中の神話にほぼ共通したモチーフであるといわれています。いかがでしょうか?みなさんも自分の好きな映画のあらすじを思い出しながら読んでみてください。
主人公には必ず欠けたところがあります。逆に言えば欠点がないと主人公たる資格を失います。その欠けたところ(トラウマ、愛を知らない、恋人がさらわれたなど)を埋めるために主人公は旅立たなければなりません。物理的に、精神的に。
そして立ち向かうべき困難やライバルは必ず自分より強いのです。そうでなければ物語は進みません。当然、主人公は勝てない。それは俺のレベルまで上がって来い!というライバルからのメッセージです。
失意のどん底に叩き落され希望を失いかけたとき、どこからともなく救いの手が差し伸べられます。忠告者(メンター)の出現です。これは肉親以外の第三者である場合がほとんどです。主人公はそのメンターとともにライバルを倒します。
そしてお宝(実際の宝ではなく自分の精神的成長であったりする)を獲得し故郷に帰るのです。そのとき主人公は昔の欠点を克服し完全なる者として帰還します。「物語」の本質とはこうした、ビルディング・ロマンス(成長物語)にあります。「上向きの履歴書」ともいわれますね。私たちは本を読みながら、映画を見ながらもうひとつの人生を生きています。「物語」は私たちに「生きる力」を与えてくれます。そうした意味でも、ぜひ子どもたちに良質の絵本を与えたいものですね。
ところで、子どもたちはひたむきに同じ遊びをくり返します。特に「機能遊び」がそうです。これをピアジェは「自己模倣」といいました。自分で自分の行為を真似ているのだ、と。大変興味深い指摘です。そういった視点で見ると、子どもたちが行っている発達段階に合わせた遊びとは、まさに模倣のステップであるな、と思います。
模倣する力とは生きる力の1つです。模倣できないと人間は成長していけません。集団の中で生きてはいけないのです。子どもたちはこうした能力を遊びの中から学びます。
それではここで、夏見台幼稚園・保育園の4つの室内遊びと「模倣する力の獲得」のステップをまとめてみましょう。

「機能遊び」はまさにピアジェのいう「自己模倣」です。続いての「象徴遊び」では他人の模倣を行います。先生のまねをします。お母さんのまねをします。さらに「構造遊び」では具体的な「モノ」の構造をまねます。そして最後の「ルール遊び」では、「ルール」という、目には見えない抽象的なシンボルをまねるわけです。学びは「簡単なものから難解なものへ」「近いところから遠くへ」と広がっていきます。
まさに「2.思考力獲得の道すじ」と一致します。身体(人)→モノ→シンボル。以上のことを子どもたちは、発達段階に合った遊びしながら自然と学ぶのです。
考えてみれば私たち大人が送っている社会生活とは「集団の模倣」であり、「ルールの模倣」といえます。正社員が会社の決まりを守れなかったら、その会社にはいられません。
もちろん模倣だけではいけません。しかし創造性とは模倣の上に成り立つものです。制約があるからこそ、自由な発想も生まれるのです。
模倣についてもうひとつ付け加えたいことがあります。私はあるとき「ごっこ遊び」をしている子どもの様子を観察していました。お母さん役をやっているその子どもを見ていると、自分のことを盛んに「おかあさん、おかあさん」と自称しています。
この「オ・カ・ア・サ・ン」と発音するときの子どもの表情はなにやら得意げに見えました。ふだんは「ママ!ママ!」と甘えているのに…。つまり、その遊びの瞬間、その子どもは「仮面」を被ります。役割の理解です。
考えてみると私たち大人も状況に応じて様々な仮面(役割)を被っています。家庭人としての仮面、社会人としての仮面、役職としての仮面、地域社会での仮面…。
仮面の下では「本当はやりたくないなあ〜」と思っていても仮面を被るとできてしまう。こうした「公と私」の切り替えができることを「大人になる」というわけです。子どもたち同士の遊びを通して少しずつ成長していくのですね。
「遊び」を中心とした幼児教育には、実はヨーロッパでの200年以上にも渡る歴史があります。フランス革命前のことです。
その流れは明治維新を迎えた日本にも伝わります。欧米を外遊したあの大久保利通が、西欧のおもちゃを「教育玩具」として日本に紹介しました。そして明治9年、お茶の水大学附属幼稚園(東京女子師範学校附属幼稚園)が開園したわけです。それはともかくといたしまして…

始まりはスイス。思想家のジャン・ジャック・ルソーが『エミール』を著し、「子どもの発見」を謳いました。「子どもは小さな大人ではない」という言葉は有名です。

ルソーはスイスで生まれましたが活動の拠点はお隣のフランス。古い慣習としきたりに支配された中世ヨーロッパは「暗黒時代」とも言われます。当時は「子どもの真性は悪魔である」といった「性悪説」が主流でした。厳しくしつけるべきだ、と。それに対してルソーは「性善説」の立場をとったのです。
今の私たちから見れば至極当たり前なことも、当時は過激思想となります。ルソーはフランスを追われスイスに逃げ帰ります。そのスイスにペスタロッチがいました。

当時大学生だったペスタロッチは、ルソーの思想に影響を受けます。やがて学校を作ります。当時は教会が学校のような機能を果たしていましたが、ペスタロッチは戦争孤児を集めた小学校をつくりました。ペスタロッチは大変な人格者だったようで、彼の元を多くの人が訪れます。その1人が我々の大先輩であるフレーベルです。

今から約150年前に幼稚園ができました。フレーベルはおもちゃの開発・活用に取り組んだ教育者です。そのフレーベルの思想が反映された積み木は今でも活用されています。もちろん、私たちの園でも取り入れています。
ちなみに明治9年に始まった日本最初の幼稚園であるお茶の水幼稚園の最初の主任教諭はドイツ人の松野クララさん。この方はフレーベルから直接教えを受けました。日本の幼稚園の本流はまさにこの「フレーベル」なのですね。
ヨーロッパは地続きなので、一人の発想や実践が他の地域に広がりやすいのです。スイスから始まった幼児教育の実践はヨーロッパの各地に飛び火します。

フレーベルの後を継ぐように、イタリアではマリア・モンテッソーリが、オーストリアではルドルフ・シュタイナーが、それぞれ独自の幼児教育を発表し実践していきます。私たちの園でも、南部名誉園長がシュタイナー的要素、モンテッソーリ的要素を、さらにはハンガリーのコダーイ教育技術を部分部分で取り入れた幼児教育を行っています。

私たちの園で使っているおもちゃは、ほとんどがヨーロッパから購入していますが、そうしたおもちゃメーカーの所在地がまた、こうした幼児教育の発祥の地である、スイスやドイツ、イタリアなどに集中しています。
ヨーロッパのおもちゃとは、こうした200年に渡る幼児教育史の上にあるのですね。(終)
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